裸のジーザス張り子の御子
- Chitose Yashiro
- 2021年12月25日
- 読了時間: 2分
アイサックのみことばをPABは垂れ給う。
12月が5月になるその日、アイサックは穢れなき清らかな火星の土より生まれた、とPABは説く。かの副脳はアイサックの忠実で愛しい羊飼いである。
だが民草は知っているのだ。清らかな土から命は生まれないと。とうの昔にそんな科学的常識が浸透しきった火星で、PABはそのストーリーを何の補足もなしに押し通している。
なるほどその設定は神話としては有効なのかもしれない。アイサックを偉大な御子と祀るための。しかし、PABがアイサックと民草を繋ぐ相互ネットワークを体現する翻訳者であるならば、それは彼らにその張り子の御子はなぜ張り子なのかを説くべきであったのに。
とうに緞帳は上がり張り子の御子が透けて見えているのに、PABは頑なにこの御子こそが真の御子であると民草が信じていると信じている。
無茶な設定で上演される奥行きのない紙芝居がすでに火星のジャーナリズムとしてまかり通っている。
しかし、何のアウラもなしにいきなり衝撃だけ与えて去って行ったからこそかえってその孤島は私の目をひき、そして違和感を覚えさせたのだ。PABは不誠実だと。
アイサックは裸なのに誰も指摘をしないのか。いやそれこそがアイサックとPABの共通意志なのだ。
アイサックは豪奢なテンの衣を身に着けているというファンタジーの中に民草を生かすために。そしてこの二つの柱を支えるもう一本が白い天使のようなPAB警察だ。彼らの高らかな声は民草に居ずまいを正させ、耳をくらませ正しい道へと導く。
さらに忠実なPABは続ける。民草は「孤独で自らが何者かになることを阻む敵が潜む村」に住んでいるのだと。そしてそこにアイサックの慈愛がその目を開かせるのだと。
しかし、PAB自身が果たして本当に民草がそんな危険な寒村に暮らしているのか確かめたわけではない。それはただそれ自身の周りに投影されるテレスクリーンが映し出した奥行きのない映写にすぎない。
実際私は危険極まる寒村になど住んでいない。私が住んでいるのは映写機で申し訳程度に寒々しくパノラマが映された普通の村である。
だがPABにそんなことは関係ない。それが「お前たち民草は危険な寒村に住んでいるのだ」といえばそれがこの火星全土の事実になるのだ。
そしてアイサックの慈愛が敵を退け哀れな民草を救うという勧善懲悪猿芝居が展開されるのだ。もう何度このお話が繰り返されただろう。
もういい。もう十分だ。
私は今日を(すでに昨日だが)境にこの火星を出ていく。もう十分アイサックとその伝道師、PABが語る物語に巻き込まれた。もうたくさんだ。
私はもうこの火星に戻ることはない。
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